「隣人の描きかた」
〇作品名 「夷酋列像」(乙箇吐壹)
〇作者 蠣崎広年(号 波響 1764~1826)
〇大きさ 各40cm×30cm
〇素材 絹本彩色
〇制作年 1790
〇所蔵先 ブザンソン美術考古博物館
何も書かれていない背景に極彩色で、長い髭をもった男性が描かれている。まず赤い外套の色が目に入る。眉はつながっていて目つきは鋭く三白眼だ。龍が描かれた着物はやはり蝦夷錦。手に持つ槍も印象的だ。豪華な衣服に比べ、裸足なのは意外にも思える。この絵は全12図の「夷酋列像」のうちの一枚だ。「夷酋列像」は松前藩主一族出身の絵師でありのち家老になった蠣崎広年 (号・波響)によって描かれた。前年に起きた「クナシリメナシの戦い」を平定するために松前藩に協力したアイヌ民族の有力者たち12人が一枚に一人ずつ描かれているとされる。クナシリメナシの戦いの舞台となった場所は飛騨屋という商人が請け負っていた。これはそもそも松前藩が飛騨屋からの借金を返せなかった代わりの場所だった。当時この地域のアイヌの有力者ツキノエは力が強く、数年間飛騨屋との交易を拒否していた。飛騨屋は数年間交易を行えなかったため、また借金を取り返すためもあって強制的に非常に安い賃金でアイヌを働かせ漁業を行わせた。それは冬の食べ物を蓄える暇もないほどで、餓死者まで出ていたという。暴力のみならず脅迫、性的暴力もあった(※1)。1789年5月、国後のアイヌが和人の商人や松前藩士を襲い殺したのに続き、飛騨屋の船を襲った。最終的にはクナシリメナシ地方のアイヌ130人が和人71人を殺した。殺された者の多くは飛騨屋の使用人だった。松前藩による鎮圧軍が出され、直接の加害者である37人は首をはねられた。鎮圧にあたって、ツキノエやこの絵に描かれたイコトイらアイヌの有力者は取り調べや鎮圧軍の警備などで松前藩に協力的だった。特に、息子のセッパヤが蜂起に加わり処刑されたにも拘らずツキノエが協力的だったことは影響が大きかったという(※2)。結果幕府から松前藩に対する処分はなく、飛騨屋は場所請負の証文の返却と一部債権の放棄で済んだ。一方アイヌの勢力はこの事件を境として衰えていく。蜂起の際にチャシ(普通日本語で砦と訳されるがその用途は見張り場や儀式の場など諸説ある)が五か所につくられたという記録があるが、これ以後チャシがつくられることはなかった(※3)。
波響はこの絵に描いたアイヌの指導者の全員には会っていない。描かれた着物や装身具は実在の物に忠実だが、これは実際の有力者の姿を描いたとはいいがたい。クナシリメナシの戦いのあと藩主にお目見えするにあたってアイヌたちには晴れ着として蝦夷錦が貸し与えられたこともあった(※4)。序文にはこの絵は藩主の命令で彼らの功績を讃えるために描かれたとあるが、松前藩が威風堂々としたアイヌを従えていることのアピールのため描かれたのではないかともいわれる(※5)。この絵は京都では文化人の間で評判を呼び、光格天皇の目にも触れた。
この絵が恐ろしいのは、繊細な極彩色の絵自体がもつ魅力が大きいことである。例えば夷酋列像に関する一見真面目な論考でも「波響だけはアイヌに同情のまなざしを向けた」というような全くの無根拠の妄想が急に現れることがある。
特定のの人物を名指しながら顔を似せたわけでもなく、描かれた着物は実物をなぞっていながら実際に着られていたとはいえない。この絵はあくまでイメージである。ここから安易に事実と嘘とを見出そうとしてしまうことこそが怖い。イメージによってあらわそうとしたものを掴むことの難しさを思う。
(※1)根室市博物館開設準備室「郷土の歴史シリーズ1 クナシリメナシの戦い」根室歴史研究会 1994年 21~22p (※2)同 28p (※3)同 35p (※4)佐々木史郎 「北東アジアの中のアイヌ」(『夷酋列像 蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界』展図録 所収)北海道博物館 2015年 118p など(※5)菊池勇夫「松前広長『夷酋列像附録』の歴史認識」(キリスト教文化研究所研究年報 所収)宮城学院女子大学 2012年 52p など